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ご 由 緒

​御祭神

  • 主祭神  菅原道真公(すがわらのみちざねこう)

  • 配祀神  菅原福部童子(すがわらのふくべどうじ)

​起 源

 昌泰4年(901)、時の右大臣であった菅原道真公は心無い者たちの讒言にあい、大宰府へと左遷されました。その際道真公のお子様たちも次々と処分されましたが、23番目のお子様である菅原福部童子だけは10歳という齢から、京に残ることを許されました。

 寂しい日々が続いた福部さまは1年後、遂にお父様へ会いに数名の従者を引きつれて大宰府へ向けて旅立たれます。しかし道中の周防国山口にて夏の疫病に罹られ、身動きが取れなくなってしまいました。従者は急いで大宰府へ行き道真公へお伝えすると、道真公は心を痛まれ、一つの掛け軸を従者に渡しました。

 急いで山口に帰った従者は、福部さまが横になられている部屋の壁に、道真公から頂いた掛け軸を掛けました。するとそこには、簾の節で道真公のお姿が浮かび上がるように細工が施されておりました。

 久しぶりにお父様のお姿をご覧になられた福部さまは大層お喜びになり、「山口の子供たちが私と同じような病気に罹らないよう、お祈りをして亡くなります」という言葉を残し、延喜2年8月26日、その短い生涯を終えられました。

​ 不憫に思われた山口の方々によって手厚く葬られ、現在の山口駅前にお墓が建てられました。命日には今でも祭典が行われております。

山口病院裏手にある​福部童子の墓所(地図

応安6年(1373) 御鎮座

​創建当初の鎮座地と現鎮座地の地図

​ 福部さまが亡くなられてから約500年後の室町時代、大内家第24代当主大内弘世(おおうちひろよ)卿は、現在の山口中心部に居を構え、山口を京のような街にしようと、一の坂川を京の賀茂川に、椹野川を桂川に見立て整備を進めていました。

 そして応安6年(1373)、大内弘世卿は京都の北野天満宮より菅原道真公の御分霊*を勧請*し、今の中市町山口井筒屋辺り(現在地から1㎞程離れた場所)に社殿を造営し、「北野天神」という神社名にて御鎮座されました。現在でも古殿地の前の通りは「天神通り」、横の通りは「北野小路」という名前で、往時を偲ばせています。

 御鎮座の際、大内氏の計らいにより福部さまの御霊(みたま)もあわせ祭られることとなり、晴れて約500年の時を経て父君との再会を果たすこととなったのです。

【御分霊*】(ごぶんれい・わけみたま)

元となる御神体から別の御神体へお遷りになった神さまのこと。例えるならば、ロウソクの炎を別のロウソクに移すようなものです。

【勧請*】(かんじょう)

​神社から神さまの御分霊をいただき、違う場所にお祭りすること。

元和4年(1618) 御遷座

​ 江戸時代に入り、山口は毛利氏が治めるようになりました。その中初代長州藩主である毛利秀就公に、元和4年(1618)「山口の北野天神を別の場所にお祭りする」よう御神託があり、それに従い同年12月25日、元の中市町から現在の古熊の東山の麓に御遷座されました。また同時に神社名も「北野天神」から「今天神」へと改められました。その様子は『防長寺社由来』にて以下のように記されています。

古熊の郷東山ニ可有鎮座との有神託。俄ニ神主玉殿を奉頂戴、東山の腰ニ長五尺計四尺計広有之所の上ニ安置、

今後仮ニも不座御神託久敷長ニ此地鎮座して国家豊饒万民快楽ニ守幸賜ヱ、従今ハ北野の改社号、今天神と可奉仰。

―『防長寺社由来』

 また社殿については、元々の社殿を解体移築されたので創建当初のままですが、毛利氏がこの御遷座を行ったという証拠として、拝殿の棟に毛利氏の家紋「一文字三星」が取り付けられました。

​旧社号「今天神」の御神額

拝殿箱棟の一文字三星紋

明治6年 現在の社号に

 維新間もない明治6年、「神社は地域の守り神として分かりやすく地名を冠しなさい」との法令に基づき、今天神より現在の社号である「古熊神社」へと改められ、今に至ります。

​ 場所や名前は変われど、天神さまと福部さまをお慕いする山口の人々の心は変わらず、今もなお多くの方々がお参りに訪れる「山口の天神さま」として親しまれています。